留萌港と鹿島建設

「三大波濤(さんだいはとう)」などという単語でぐぐっていたら、ちょっとばかし留萌港の歴史に詳しくなってしまった。

留萌の港は、昭和初期に鹿島建設が苦労して築いたもの、ということである。江戸時代までは港と言えば「桟橋のある波止場程度のもの」が一般的だったのだが、明治維新後の富国強兵政策の中で「大型で吃水の深い洋式蒸気船を接岸する岸壁や港湾設備、防波堤を建設する」必要が生じてきた。留萌川の河口に港を構築する仕事を請け負ったのが鹿島建設というわけだ。

アイヌ語で静かなる川(ルルモッペ)という名の留萌に和人が住み出したのは1630年ごろからで、幕末には留萌川河口に多くの千石船が停泊して賑った。明治2(1869)年に留萌(るもえ)と命名される。明治中期には海産物や木材などの増加に伴って海運業者や倉庫業者が進出し、交通・商業の要衝として栄える。たくさんの船が、蛇行する留萌川の河口の両岸に杭を打ち連ねて係留されていたという。しかし留萌海岸は世界3大波濤(*8)のひとつに数えられるほどの荒海である。特に冬の日本海は時化がひどく、外海の影響を受けない近代的築港の必要性に迫られていた。

当時の河口は、今よりもかなり海にせり出していたハズ。そのため、外界の影響を強く受けざるを得ない構造になっていたのだろう。その河口を、天然の地形をうまく利用して構築したのが今の留萌港である。件の黄金岬(地図の左側)は、直接海に面しているので、海が時化た時には、外海の影響を直接受けてしまう構造になっている。沖の方に防波ブロックが設置してあるかもしれないが、自然の大きな力を無力化することは難しいと言わざるを得ない。


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